民芸と模倣
一
聖アウグスティヌスの『懺悔の書』を除いて、基教文学中最も有名な本は、
『基督への模倣』'Imitation of Christ' である。十四、五世紀に渡って活
きていた修道僧トマス・ア・ケムピス Thomas a Kempisの著作にかかると云
われる。今では殆どありとあらゆる国語に翻訳がある。日本でも既に三、四
種に及ぶであろう。不思議にもローマ公教徒のみならず、新教徒も等しくこ
れを愛読する。若しここに愛書家があって、その版本の蒐集に浮き身をやつ
すなら、彼は遂に一図書館を建設せねばならぬであろう。それほどにこの五
百年の間、人類から絶えず読まれた霊の本である。
二
私がここにその本を引き合いに出すのは、その内容とか歴史とかに就いて
語るためではない。その本が有つ不思議な標題に就いてである。特に「模倣」
'Imitation' の一語に就いてである。なぜなら近代人にとってこれほど唾棄
すべき言葉はないと思えるからである。なぜ中世紀の僧がこの言葉を使った
か。彼がこれを用いた時何をそれで意味させたか。その頃この言葉の真義は
何であったか。云うまでもなくこれは宗教的意味に使われたのであるが、字
義の内容は民芸の問題に対しても極めて示唆が多いと私には思える。それで
ケムピスの言葉を借りて、ここに「民芸と模倣」と題したのである。逐次語
る私の説明につれて、読者もその趣旨を了得されることと思う。
三
まだ学生であった頃、私は告白するが、この本の題ほど不可解に思えたも
のはなかった。否、いたく不合理にさえ想えた。「基督への模倣」、真似を
する生活、追従の一生、そこにどうして生活の意義があるかを知るに苦しん
だのである。「イエスに倣え」と云うのである。「イエスの如く偉大なもの
になれ」とは云わないのである。模倣は独創の否定ではないか、模倣の一生
は屈辱の一生ではないか。それは個性への不当な拘束ではないか。私もまた
個人主義時代の子供だったのである。「模倣」の一句を潔しとしないのは当
然である。私は中世時代の人達の不自然さをすら考えたのである。
「民芸には模倣が要る」、私がこう叫んだら、読者はかかる考えを承認し
ないであろう。そうして独創的ならざるあらゆるものを軽蔑するであろう。
四
想うに「模倣」の言葉が、強い屈辱の意味を有つようになったのは近代で
のことであろう。特に個人主義時代に於いて許すべからざる醜さを、その語
義が有つようになって来たのである。なぜなら近代の英雄崇拝は、個人の卓
越した独創を讃美するからである。模倣ほど恥づべき行いはないに至ったの
である。私は読者がこの本を日本語に移す時、誤解を避けて、「聖範」と改
題したのを興味深く思う。又言葉を柔らげて「基督に倣いて」と新しく訳し
たものもある。兎も角「模倣」の一字に深い意味を含ませた時代は過ぎたの
である。人はなるべくこの言葉を避けようとする。そうして個人的独創のな
いものを軽蔑する。だがこの見方は凡ての場合に適応されるであろうか、適
応してよいであろうか。
五
ケムピスがその本を書いた時代は又気持ちは、近代のそれとは甚しく違う。
ここに模倣とは範に則るの義である。法則への従順である。正しきものへの
敬慕である。道を忠実に踏むの意である。深きものへ己れを捧ぐる意である。
この過ち多き「吾れ」とか「吾がもの」とかを棄ててかかる謂である。己れ
を越える絶大な力に信じ入る義である。敬虔深き一生を有たんがためである。
その頃の時代は秩序の時代であり、協存の時代であった。謂わば宗教的同
胞の時代である。僅かの者が救われた時代ではなく、大勢の民衆が共に救わ
れた時代である。中世紀の工芸を見られよ。特殊な僅かなものがよいのでは
ない。凡てのものが共に美しく作られたではいか。何がそうさせたのか。凡
てが範に則ったからである。大なる伝統への服従があったからである。中世
の僧はかかる正しきものへの敬虔深き従順を、「模倣」の言葉で示したので
ある。
六
転じて「模倣」の二字が屈辱の言葉に変わるのは、時代が個人主義になっ
てからである。個人を主にするならば「模倣」は許すべからざる行いである。
人々は英雄の位置を慕う。独創なくして英雄の位置はない。模倣は個人の踏
むべき道ではない。「独自」のみが個人の存在を明確にするからである。
今は民衆が共に救われる時代ではない。少数の卓越した者のみが救われる
時期である。個人の立場に立脚せずしては生活がない。近代の歴史を見られ
よ、それは民衆の歴史と云うよりも、少数の選ばれた英雄の歴史として書か
れているではないか。
工芸の世界に於いても趨勢は同じである。個人的作家の工芸のみが高く評
価される。英雄のない民芸が長い間閑却されてきたのも無理はない。そこに
は個人的特質が消されているからである。
七
若しも人間の思想が個人的立場に始終すべきものであるなら、私とても独
り独創の世界を仰望するであろう。個人的立場は当然模倣を排斥すべきだか
らである。若しも凡ての工芸家が個人的工芸家でなければならないなら、作
品はどこまでも模倣であってはならぬ。模倣に終わるなら個人の意味は淡い。
個性のない作家があるなら、彼等の存在ほどみじめなものはない。そうして
独創の持ち合わせのない作家達は、強いて「新」を求めるために、奇異と変
態とに陥ってゆくのである。併しかかるものと独創とは同じではない。少数
の天才を除いて殆ど大部分の個人作家は、悲劇のうちに一生の幕を閉じる。
選ばれた英雄ではないからである。個人道は少数道である。
八
だが模倣が悲劇に終わるのは、個人道を選ぶからではないであろうか。個
人的立場に立つ時にのみ、模倣が敗北を招くのではないであろうか。抑も模
倣の概念は個人的立場があるが故に起こるのではないであろうか。その立場
を去る時、私達は厭うべき模倣の世界をも去りはしまいか。
歴史の動きには多くの民衆が控える。少数の天才のほかに、非個人的立場
にある民衆の存在を忘れてはならぬ。彼等に独創を求めるのは、凡ての人間
に天才的立場を強いるに等しい。あの民衆の手から生まれる民芸は、その独
創に評価をおくべきではない。彼等は個人的立場で作物を造るのではないか
らである。それなら模倣は彼等の作を謗る何等の基準にもならないではない
か。民芸の道と個人的作家の道とに混同があってはならぬ。
ケムピスは平信徒に「基督への模倣」を教える。個人的立場に立たない民
衆に彼の教えは不調和であろうか。
九
民衆は個人的立場を取らない。個人主義的見方からすれば凡庸と謗らるる
かも知れぬが、この非個人的立場こそは民衆の大きな強みではないか。個人
主義がなし得ず有ち得ない大なる領域をそれが示してくれるからである。
大衆なくして社会の成立はない。個人としてはその存在が弱くとも、結合
としては強いものとなろう。結合は秩序を求める。秩序の維持は法への遵奉
を要する。遵奉は従順の徳を求める。かかる従順を古人は「模倣」の字で現
したのである。それは大なるものへの帰依である。ケムピスは「基督への模
倣」を語るのである。基督だからこれに倣えと訓すのである。
個人作家の作は道を拓く。だが拓かれた工芸を大成するものは民芸である。
個人的立場を取らない民芸である。民芸は正しいものに範を取らねばならぬ。
それは大きな仕事を背負うのである。
十
民芸には嘗て古人が意味した如き模倣が要る。よるべき目標が要る。道し
るべが要る。それは屈辱ではない。なぜなら個人的立場にいない民芸は、単
なる厭うべき模倣の行いをしているではないからである。それは範に従うの
である。ここに模倣は模造でもなく、偽造でもない。また剽窃でもない。民
芸に於ける模倣には、個人的立場からいう模倣の意義は決してない。読者は
このことをよくよく了得する必要がある。
模倣が屈辱的意味を齎らすのは、只個人的立場による時のみである。非個
人的立場に帰る時、模倣は全く異なる意義に変わってくる。それは受け容れ
る心である。信じ入る心である。素直に従う心である。既に模倣への意識す
らなく又こだわりもない。この場合模倣は帰依である。私をしてケムピスの
著書を訳せしめるならば、「基督への帰依」とそれを訳そう。
十一
服従の徳を今の人は認めない。併しこの徳の真意が了解されないなら、結
合される社会は来ない。正しきものに帰依するものが集らずば神の王国は来
ない。則るべき美への模倣なくして美の王国は来ない。この世界を美しき世
界に導くために、正しきものに帰依する民芸が如何に必要だかを痛感する。
多くの批評家は、独創のない故を以て、民芸の価値を卑下してかかる。そ
うしてそれが個人的天才の所産でないのに不満を感じる。だがそれ等の凡て
の観察は個人主義の遺物に過ぎない。
只少数のものが救われることは、社会の理念からは遠い。共に救われる道
が別に示されねばならぬ。独創の誇りもそのことの前には無力である。別の
力が衆生を済度せしめるのである。独創は僅かな者の得る特権に過ぎない。
大衆はそれに便るわけにゆかぬ。だが幸いにも都に至る道が二つある。一つ
は個性の道、一つは個性に立たない道、後者が民芸の世界である。
十二
民芸は深く伝統と結び合う。だが伝統は不自由を意味すると考えられる。
この字句も亦しばしば近代的嫌厭の対象である。併し伝統を不自由と解する
のは、やはり個人的立場からの批評に過ぎない。それは個人への拘束であろ
うとも、直ちに民衆への束縛ではない。伝統は非個人的領域に於いて不思議
な働きを示してくれる。
自からの力で立たない者にとって、又立ち難い者にとって、伝統こそは解
放であり救いである。伝統は一つの規範である。民衆はそれに則ることによっ
て、自からをその高さにまで進めることが出来る。天才は自からの力で自か
らを救うであろう。併し民衆を救うものは自からではない。自からの放棄の
みが偉大な仕事を彼等にさせる。規範への従順な帰依が、彼等を不自由から
救う。個性からの解放が却って自由との結合を可能にする。民芸の自由さは
伝統から発する。そこには独創はないかも知れぬ。併し終わりのなき発展が
見られるではないか。伝統は停止しない。それは前進しつつある伝統である。
十三
民芸の最近の堕落と衰頽とは伝統の萎縮による。個人主義の侵害による。
かかる破壊は一進歩とも見られようが、建設なき破壊は片手落ちである。一
般の美意識が今日のように低下した時、民芸には更に尚則るべき規範が要る。
個人主義はここでは如何なる役目をも果たさない。民芸は個性の所産ではな
いからである。自己を言い張るなら既に民芸の立場ではない。そこは大衆が
働く世界である。一人が抽んでるのではなく、多くの者が力を協せる世界で
ある。そうして僅かばかりのものをよくすることではなく、よき多くのもの
を作ることに任務がある。少数の天才が携わり得ない領域が民芸の領域であ
る。独創が目的ではない。一つの新しき作を産むのは個人の仕事に任せてよ
い。多くの正しきものを守り拡めることが民芸の背負う仕事である。これな
くして工芸の文化に向上はなく、美の社会化は来ない。工芸が只個人作家の
工芸になる時、それは社会との絶縁を意味する。社会的意義を背負うものこ
そ民芸である。民芸の美は社会美である。
十四
基督のみでは世は正しくならない。仏陀のみでは世は深くならない。彼等
に倣い彼等に則る平信徒が、宗教の社会を生む。美と社会とを繋ぐものは民
芸である。職人は工芸界の平信徒である。正しきものを継ぎ守り伝え拡める
のが仕事である。模倣は民芸に於いては公明である。大いなるものへの模倣
なくして民芸はない。模倣はここでは正しきものの継承であり、伝達であり、
守護である。それは自己を修飾するためではない。又外を欺くがためでもな
い。それは個人に於ける如き無節操でもなく、亦欺瞞でもない。自己を超え
たものへの、素直な受け容れである。民芸には迷いがない。それは無心に活
きる。そこには個人的罪悪からの解放がある。それは非個人的な美しさであ
る。多くの者が共々に活きる美しさである。正しきものに倣う心こそ民芸を
はぐくむ。なぜ古人が信徒に向かって「基督への模倣」を説いたか。その秘
義が解かれるではないか。
十五
個人としては誰にも誤謬がある。それ故個人的仕事にはしばしば誤った品
物が見える。だが民芸には罪深き作を見ない。己れがないからである。信じ
て他を受け容れるからである。それが正しく又大なるものに則る時は誤謬が
ない。素直な受け容れは作物を浄化する。民芸には自然さの美がある。躊躇
がなくこだわりがない。民芸には自由さがある。不思議にもここでは模倣が
却って創造を産む母である。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』 10号 昭和6年10月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
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